今日のアートは才能の塊メレンゲさん(@merenge_doll )より
僕は常々、表現者にとってもっとも重要なものは「使命」を自らに課すことだと思っている。
女性の脇毛を描いた絵で世界を埋め尽くしたいという単純なものでもいいし、シングルマザーとそのティーンネイジャーの娘、でも娘は妊娠しているという複雑な関係性を描いた話をたくさん創造したいということでもいい。
僕にとって、それは自然主義を貫くことだった。
僕が6年生のとき、短い劇をクラスの前で発表しあうという授業があったのを覚えてる。で、同級生の劇が終わって先生が「誰か質問ありますか?」ってなったときに、僕は「劇の始まりにベッドから起きて学校に行くシーンがありますが、実際はあんなにさっと目覚めないと思います」と発言したんだ。
するとみんな僕を変な目で見るわ先生は困惑してるわ。とにかくその瞬間の空気が僕に焼き付いてる。ああいう空気になったときのいつもの恥ずかしさに加え、「いや、でも間違ってないよな…」という小さな自信みたいなものがないまぜになった不思議な感情だった。
あとになって思うけど、やっぱりあの出来事が僕のクリエイター人生の芽生えだったんじゃないかな。
これまでずっと、なにかのお話を全力で楽しんだ後でさえ、「でもそんな話し方しねーだろ」みたいなめんどくさい感想をいつも持っていた。で、どこかのタイミングで美術の本を読んでいたとき、「教えられたようにではなく、見たままに描きなさい」と教えている箇所に気づいたんだ。
それが、僕の頭の中で何年もかけて形作ろうとしていた言葉を結晶化させてくれた。「教えられたようにではなく、見たままに創りなさい」って。
先生が教えてくれたようなジグザグの線を芝生とするんじゃなく、見たままに芝生を描くんだ。
メディアが押し付けてきたような典型的な人間じゃなく、僕が知っている人々を書くんだ。
でも、この「使命」は別の僕と常に対立していた。別の僕はルーニートゥーンズ、トムとジェリー、テックス・アヴェリーのアニメ、アニマニアックスシリーズで育ってきた。こちら側は、巨大な個性のぶつかり合いで生じる火花を心から楽しんでた。
こちら側の僕が、すとり~みんぐチャン担当だったんだ。
VA-11 Hall-Aのストーリー構築の際、お客のシーン(1日につき平均4。お客同士で会話を始めるやつは除く)は完成まで大体数日必要だった。たまに別のシーンに移ったり、何か思いついて前のシーンに戻ったりもしたけど、とにかくお客のシーンひとつにはおおよそ1日から1日半かけていた。
それがすとり~みんぐチャンのシーンはある日の午後、たった3~5時間で完成した。
それだけじゃなく、現行版のすとり~みんぐチャン登場シーンは、初稿と全く同じなんだ。スペルミスとかは別にしても、後でも何も調整することはなかった。全部1回で完了したんだ。
ロマンティックな言い方をすれば「降りてきた」ってやつ。病名をつけるなら過集中だね。
ほんとに、他の例だとここまでスムーズではなかったけど、ドロシーやデイナみたいな一筋縄ではいかないキャラクターたちの会話を考えるのはとても楽しかった。
誰について書くときにも、僕の「使命」はきちんと機能していた。いくらすとり~みんぐチャンだって、一発ネタだけじゃキャラクターが成り立たないからね。
誰だって特別な機会が来ない限り全力を出さないというルールがあると思う。逆に言うと、もっと頻繁に全力を出したいのなら、自分が特別な機会を迎えてるということにすれば良いんだ。
これがすとり~みんぐチャンのコア要素。さっき言ったコンセプトをなんとか形にしてみたものだ。でも、彼女は別にそのためだけに一日中実況してるわけじゃないよ。
この時代では彼女のキャラクター性はもはや特に目新しくもないし、「うっとうしいくらい活動的なクリエイター」に対する社会通念も日々変わってくる。でも、このまま技術が進歩し続けて、僕らの住む地獄の日々で「睡眠時間でも金を稼ぐ」みたいなものですら時代遅れになる日が来るとしても、自分の良い面を更に輝かせられるのは実況を通すことだと信じて、生活すべてを放送することにしたという少女のお話はいつになっても有効なはずだ。つまり、これは執筆におけるセービングスローなんだ。
しかしまあ、パロディを作ろうするまでもなく現実世界自体がパロディみたいな状況になってるこのご時世だと、SFのストーリーを書くというのはかなり厄介な仕事になってくるもんだよ。
さて、一緒に遊んでる人たちのために改めて書いておくと、今日はゲーム本編の4日目となります。
明日:街はきな臭い。でも仕事はしなくちゃいけない。